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2006年11月04日
ゲストインタビューその1・笠原広一さん

京都市、東山三十六峰のひとつ瓜生山にある京都造形芸術大学内にある「こども芸術大学」。子どもワークショップフォーラムの探訪の皮切りに、スタッフ一同でお訪ねしました。
ここで交わした言葉やキーワードは、以降の探訪につながっていきました。
施設を訪問したときの様子は、ブログでも紹介しています。
→探訪・その1/京都造形芸術大学「こども芸術大学」
「こども芸術大学」とは、芸術の大学が子どもたちに何かしてあげられないだろうか、と子どもと母親のための教育機関として、3歳から就学前の幼児を対象にした、母親も参加して学ぶことができる通学型の幼児教育施設。
「霊山子どもの村 遊びと学びのミュージアム」に勤務当時、ニューヨークの同時多発テロを目の当たりにした笠原さんは「アートで子どもたちになにができるだろう?」と考え続けたといいます。
こども芸術大学の立ち上げから運営の中心となってこられた笠原さんご自身のこれまでの活動や、今始まっていることをぜひ直接お伝えいただきたいと考え、今回のゲストとしてお迎えすることになりました。
詳しいプロフィールは→こちらから
●親も共に学ぶ場であること
笠原 子ども芸術大学に来ると、「(知育玩具など)何もないんですね」と言って失望する人と、反対に何かできそうと期待する人がいます。私はカウンセラーではないので、教育面から子どもとお母さんの成長を支援しています。ここは教育大学ではなく芸術大学ですから、子どもに対して、芸術的な体験の種をまくところから始めています。その一番良い方法は、といっても、言葉でいうほどうまくできないので、3歳の子どもに戻ったつもりで子どもと接しながら試行錯誤し模索しています。
子どもたちの能力を高めることを主眼とした教育をしようとは思っていません。
それよりはむしろ変化に対応できる器を育てたいのです。
子どもは自然や友達と仲良くなるプロセスの中で生きる術を身につけていきます。兄弟でも誰でも連れてきていいようにしているのも、異なる年齢の人とも関わり仲良くなっていけるようになるからです。
ここでの試みを、ひとつの教育機関の中でのクローズドな取り組みに終わらせたくない。トップダウンの新しいシステムをめざすのではなく、ボトムアップの運動体でありたいと思っているのです。
--(小野)子どもを育てることは、子ども時代を生き直すことに通じるような気がします。
子どもの時に取りこぼした経験を補ったり、子どもの時に抱えた問題や傷を、子どもを育てる中で解決していったりすることが多いと思いますが。。。
笠原 各々が大人になって気づいたところから始めればいいと思います。ここでは、親子で「ものを見るとはどういうことか」考えることから始めました。こども芸術大学の3年間の中で、お母さん達には子どもたちの生活の中にさまざまな物語(場)が流れているのを目の当たりにすることで、母として何を大切にし、何をするか、つまり「ブレない何か」を掴んで欲しいと思っています。私たちはカリキュラムの大枠は作りますが、お母さんがそれぞれ課題を見つけて欲しい。
そのために、大学の講座の聴講ができるようにし、母親ミーティングを行って、運営にも関わっていただいています。最初は親が学ぶってどういうこと?という声がありましたが、母親たちが学ぶ中からプログラムが生まれています。
例えば「だれだろうね」という創作絵本は、娘につれられて毎日のように大学の裏山(瓜生山)を歩くうちに、親も生き物の気配を感じるようになって、子どもの絵を紙芝居に仕立てた話です。「フエルトで虫づくり」は、昆虫になりきって過ごしている子どもが描いた絵に親が感銘して作った作品。
このように、生活を通してプログラムが、プログラムを通して生活が相互につくりあげられていっています。
こども芸術大学は親が自分自身をどうとらえてゆき、どう子どもと共生していくかを実験する場でもあります。
●子どもはどうやって学んでいくか?
笠原 子どもの絵は芸術かと聞かれることがあります。「表現の全てが芸術」という考え方と「芸術とはこういうもの」という考え方があります。例えば子どもがアサガオを観察し、その美しさに気づいて言葉や絵で表現していくプロセスそのものも芸術だと思いますが、これを芸術教育としてはどうあつかうか。
私は、大学の授業では、学生に「あなた自身はどう思いますか」と、子ども観、芸術観、教育観を問いかけて、学生同士でシェアしてもらうようにしています。
モノをつくり表現することって、本来はゴミをつくることではありませんよね?
大人になると、こうしたことがコンセプチュアルに考えるなかでできるようになるものですが、子どもは実物をさわりモノをつくるなかで、ものごとがどういうことかわかってきます。しかし「わかるために学ぶ」のと、「遊ぶことで学ぶ」のは大きく違うと思います。
21世紀において、アートとは、多くの人と共有していける美しいコトを追求する術なのではないでしょうか?
芸術教育においては、それぞれの課題意識の中から問いをたてていくというプロセスを評価すべきでしょう。
必要なのは、ものごとを注意深く肯定的に見直しながら、さまざまなものをつなげていける人材です。
--(森川)ものごとを注意深く肯定的に見直す、というのは、私たちの子どもワークショップフォーラムの視点と共通しています。ワークショップ、子どもの体験学習が広く執り行われる昨今、何のための、誰のためのワークショップなのかを、みつめなおしたいと思って今回のフォーラム開催を考え、こうして準備を進めています。
笠原 子どもほど注意深く肯定的に受け止められていない存在はいないかもしれませんね。
--(小野)反対に、子どもほど親を注意深く肯定的に見ている存在はいません。同じことをしている姿にドキッとします。
笠原 そのことは、このプロジェクトを通じて再確認しています。ここではよく子どもが泣きます。母親がいることで安心して泣けるのか、感情を素直に表現しています。その感情を受け
止めるのはしんどいことですが。。。
--(小野)「泣いちゃダメ」と育った人は、子どもが泣くことを許せなかったりとか、子ども時代の体験は、親になった時の子どもの対応に大きく影響してくると思います。そういう意味でお母さんが自分の課題に気づいたり、向き合ったり、学んでいくことをサポートしてくれる場があることは、幸せな子どもを育てることの基本かもしれませんね。「お母さんの教育」を大事にしていることを、とても興味深く感じました。
子どもと一緒にお母さんが育っていくところが素敵ですね。
●人から人へ伝わるもの
--(森川)運動体として取り組んで行くことを意識している、とおっしゃいましたが、その流通システムや経路については、どうお考えですか?
笠原 トップダウンではうまくいきません。人伝いに「におい」が移っていくような、そのにおいに電気が供給されていくようなインフラをもつこと。そんな場が作れないかと思っています。
--(森川)その問題意識も共通しています(笑)。今回の探訪先も各地の数ある子どもの体験的な学びの現場から「におい」で選んでいったようなものです。
笠原 いい活動があちらこちらにあるのを、見えるようしていく必要がありますね。こうすればこうなる、みたいな教育効果に注目が行きがちですが、子どもの笑顔がなければ、教育現場
に平和がなければ、教育者は単に作り話をしているにすぎないことになります。
大きなことをいう前に、平和であることを自分自身が確認できることも大事なのではないでしょうか?
--(小野)「芸術家がなしえる固有性」について、笠原さんはどうお考えですか?
笠原 はたして芸術に固有性があるでしょうか?模索中です。能力向上という軸はあってもいいですが、あまり興味はありません。学生時代に「飢えた子に文学は何をできるというのだろう」という一節を聞いて芸術に置き換えてみました。当時の私の答えは最後は、やっぱり「絵に描いた餅は食えぬ」でした。
--(小野)問いつづけるのですね。
--(森川)教育とは、自分自身で問いを見出せるようになるための環境づくりだと思っています。だから、ワークショップは促成栽培のための体験学習に使われるものではないと思います。
--(小野)結果として能力は高まりますが、それを目的とはしたくないですね。ここを皆で考えてフォーラムの場で話し合っていきたいし、この後の旅でも考えたいです。
笠原 その想いは、きっと皆さんが動いていくほどに膨らむでしょうね(笑)
--(小野)そういう膨らみの中で真理が見えてくるのかもしれませんね。そんな場をコーディネートできたらいいな。ゲストや参加者のみなさんが、お互いの力や情報を出し合って元気になれる場にしていきたいと思います。
--(森川)運動体でありたい、というここでの試みを、フォーラムの視点につなげていきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
(2006.9.26訪問 記録:穴澤剛行、小野三津子 編集:森川千鶴)
投稿者 yoshizawa : 2006年11月04日 00:49